「分身」著東野圭吾  読んでみて

背景

この作品は1996年に初版が発売された。その年はドリーという羊が生まれた年である。ドリーはクローン技術によって生まれた初めての羊で、当時はその話題でもちきりであった。この分身という作品は、そのクローンを題材にしたミステリー作品である。理系である東野圭吾がいかにも書きそうな題材である。

 

内容

大学の教授を父に持つ氏家鞠子と、母子家庭で育った小林双葉の二人が主人公である。

氏家鞠子は、自宅での母親の焼身自殺やその前後での母親や父親の不審な様子から、母親の自殺理由を探していく中で、鞠子は父親が昔愛した女性のクローンであり、家族円満であったと信じていた母がその事実に苦しめられ自殺したことを知り、また鞠子も自分自身がクローンであったという事実に苦しめられる。

小林双葉は、母親から反対されたテレビ出演をきっかけに、不審な人物が自宅に訪れ母親と謎の話をした後、母親がひき逃げ事故にあい死亡した。そして脇坂講介に出会い、彼とともに、母親の死亡事故の原因を探っていった。その中で双葉は講介に恋をしたものの、自分自身の出生の秘密を知り、クローンの元である人物が講介の養母であり、講介が双葉に近づいたのも養母から命令されてとのことであった。そのため、双葉は恋心を傷つけられ、その上自分がクローンだと知り、孤独や自分が生まれてきた意味の無さに苦しめられる。

しかし、小林双葉と氏家真理子は自分達がクローンであることを知り孤独感に陥ったとともに、クローンとして同じDNAを持ち同じ悩みを抱いているという「仲間」がいるという事実が二人を孤独感から救ったのであった。

 

感じたこと

もし私が突然誰かのクローンであることを両親に伝えられたらと考えると、私の元を増やそうと誰かの意図により誕生したという事実により、端的に言うと悲しくさせる。例えば、もし仮に自分が偉業をなしたとしても元のDNAがよかったというだけで自分の努力などは認められない。これは私の感情を無視し人格をも無視している。そういう人生をこれから強いられていくのは非常に悲しく無意味な気がする。そんな風に考えると、今の世界でクローンを用いて人を造るというのは人権侵害に当たるのではないかと思う。

次に、別々に育てられた同じクローン仲間と会うとする。すると、自分の声で自分と同じ顔で話す誰かというのは非常に気味が悪いが、どういう話をするのかというのが非常にわくわくする。といのも、育てられ方は違うのだから違う考えを持っているだろうし、しかし当然基礎能力的なものは同じであるから同じ苦しみを持っている。何が同じで何が違うのかを話しながら探っていくのは非常に好奇心をそそられる。